新居浜発展の基盤


元禄3年 新居浜の南側四国山脈で発見された歓喜抗

元禄4年から採掘を開始 粗銅の運搬は宇摩郡、土居天満浦まで35キロ
元禄15年からルートを新居浜浦へ変行18キロ、これにより新居浜発展の基礎ができる

明治時代の施設と新居浜の関係


別子山中にはさまざまな施設がでた
明治20年代私立住友尋常高等小学校 現在の市立惣開小学校


現在の惣開小学校の額 鷲尾勘解治翁が揮毫

校歌作詞 越智武平 補作 山口誓子 作曲 山田耕筰(童謡赤とんぼ作曲)


別子山中にはさまざまな施設がでた
同年代の私立住友病院 現在の住友別子病院
山中にも部落、町が置かれ目出町(めったちょう)には鉱山本部がおかれた
このなかの購買部が新居浜大丸(平成13年5月27日閉店)となる

明治20年代の小足谷劇場5月の祭りには、上方から歌舞伎役者や
相撲取りを招いたりしていた最盛期には約1万人が住み、山々に、歓声が響き渡ったに違いない
開抗200年祭では、この山中でなんと太鼓台が3台出たそうである



劇場跡と蘭塔場跡(元禄7年大火災の殉職者を祀った墓所)現在は瑞応寺に納められている

明治時代給料日には喜光地や西条から芸者集が銅山峰を越え 若者は峰を越え喜光地へ飲みにいき
朝早く百姓や魚屋(活きている魚)呉服商人が峰を登る
家具類は大阪直送で西条、壬生川、観音寺から買いにくる



明治20年代の新居浜

龍神様が見えます、現在住友菊本工場正門近くにあります
現在、別子山中(旧別子)には、多くの遺跡が存在している
まだ一度も訪れてない人は、是非ここを訪れ、銅山峰から新居浜を見てほしい
冬季や雨風に耐え重い粗銅を背負い峰を越え、又多くの行き倒れがあったことを

そして現在の新居浜市内から峰を見てほしい何かを感じ、何かを思う
詳細 県立新居浜南高校ユネスコ部

マイントピア別子(端出場ゾーン)のボランテアガイドについて
「マイントピアを楽しくそだてる会」が実施原則として土・日・祝日の午前10時から午後3時まで
端出場記念館2階にて受付
遺跡を見学されたい方,登山の装備が必要です

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