旧広瀬邸主に内庭について

建造物が国指定重要文化財「旧広瀬家住宅」

国の重要文化財に指定されている建造物は、母屋・新座敷・離れ・金物蔵・米蔵・門番所・乾蔵・表門で、
新土蔵・西座敷脇屋・人力車小屋・裏門が附(つけたり)指定です。

名勝(庭園)は国指定名勝「旧広瀬氏庭園」

国の名勝に指定される範囲は、亀池周辺と旧広瀬邸の敷地をあわせた範囲


明治10年旧広瀬邸、母屋は久保田町ひかり温泉辺りにありました
上原には茶畑開発され茶畑でした


短期大学跡、ここは製茶工場でした


明治18年から現在の上原に母屋移転開始、明治22年新座敷と庭園竣工


新座敷から見た内庭、大きな石は京都から、小さい石は地元から採取


池への給水口


池からの排水口


明治20年代、谷から導管を使用し水を引いています



湯殿


湯殿から茶室につながる飛び石と蹲


当時、湯につかり煎茶を催すことが分かります


煎茶的空間、煎茶は文人茶と呼ばれています
文人墨客、つまり詩人、歌人、小説家、学者などの文筆活動や、画家、彫刻家、陶芸家等の芸術活動に携わる人達
煎茶自体が中国文化であったことなどから、形式にとらわれずに煎茶を飲みながら清談を交わす、
中国趣味が文人の間で急速に広まりました
内庭は煎茶的空間、中国深山幽谷を元に作られました


明治30年亀池周辺周遊道が鉄道技師、小川東吾(讃岐鉄道、別子鉱山鉄道、箱根鉄道を設計)によって整備
その後私邸の庭でありながら公園として人々に公開

広瀬邸庭園は別子銅山を近代化した広瀬宰平と長男満正が近代日本の生成期に
先進の精神をもって取り組んだ庭園です



鉱山技師、ルイラロックの言葉です
私たちの新居浜は広瀬氏や先人の新居浜の人々により発展しました
次世代の新居浜の人々に産業遺産を保存し、語り告ぐべき義務があると思います

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