大島左儀長、新居浜とうど


令和2年1月13日沢津とうど



沢津自治会祭礼部の資料より


御協力沢津自治会祭礼部のみなさん

大島左義長

いつからこの行事がはじまったのかまったく不明だそうです(大島公民館長談)


現在5基たてている、3基にする計画有り将来に伝承するため、
組み立て方法や、紐の結び方など
写真や文書にして残す取り組みをそろそろ始める大島公民館館長談



大島とうど(左義長)は昭和40年代まで、小学6年生から中3の男子生徒だけで構築
各注連縄を結び一本のロープの様にしてどうどに巻きつけたとうどの左右に立てる幟には、
男の名前を書く午前3時に子供たちが、今からとうどをはやす(焼く)という、
知らせを町内に案内してまわった

夜、火が誤ってつけられないようにとうどの周りに子供たちが輪になり囲み、見張り,
砂浜の時代、家の近くまで砂浜、上の方でとうどを造り、干潮時、なみうちぎわまで、とうどをおろした

一辺が3メートル前後、高さ6,7メートル四角錘を孟宗竹で組、中心に10メートルの心棒を入れる
側は年末に使用したすす竹を〆縄で巻きつける、3分の1のところに横に2本の竹(こうが)をとうしておわる
大幡には部落の名前と蓬莱山、左儀長、小幡には男の名前を書く
材料は子供が集め、大人が組み立て、子供組が管理
13才、水汲み(みならい)14才、新人(執行)15才、大将(企画運営)16才、喰い抜け(相談役)
昭和40年代までは、子供で運営、管理、現在少子高齢化で子供がいなく、大人で構築
新居浜の伝統文化です、伝承する義務があると思います


沢津のとうど

みこし型で七夕かざり、不思議です

新居浜浦(現在の大江)明治維新のとうどの記録です(新居浜図書館蔵、郷土史談)







新居浜浦、大正時代、大江のとうどの記録です(新居浜図書館蔵、新居浜史談)




大正時代まで大江には、みこし形とうどの行事があった事がわかります
記録では大正天皇崩御により停止とあります
数台のみこし形のとうどがあり、船に乗せ、舟歌を歌い、内海(埋め立ててない大江浜)に漕ぎ出し、向高洲
(現在の大江工場)で、ぶつけあった記録です
舟歌の復活と大江のみこし形とうどを再建し是非見たい


宇高地区のとうど



左義長、とうどについて

さぎちょうは宮中で行われていた行事、が民間にひろまりました
一般的には宮中では左義長、民間ではとうど、とんどなど色々あります
蓬莱山(ほうらいさん)について
昔中国には道教という思想がありました、飛鳥時代に日本に伝えられました
これは神仙思想とよばれ蓬莱山には仙人が住み、不老不死の仙薬があるとされました
この蓬莱山が全国に広まり、地名や古典芸能や古典文化の中に残っています
ちなみに道教の最高神、天皇大帝(てんこうたいてい)の読みが、日本の天皇の語源と言われています

ちなみに正月の注連縄は神社の注連縄と同じく結界(けっかい)をあらわします
内側は神の鎮座する清なる場所、外は下界
年末大掃除をして、正月の神様、歳神を家庭にお迎えするため、注連縄をはります
玄関の門松(昔は常緑樹であればなんでもよい)は、神様の依代です、一時ここによられ、家の中に入られます

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