新居浜祭礼考察

川西地区

江戸末期から明治初期の太鼓台

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西条市こどもの国に展示してある太鼓台 西条市ひまわり幼稚園提供
雨龍の布団〆、上水引は前後に獅子頭、左右に牡丹の1枚物
中幕が確認されます、高欄幕は前後に龍頭、左右に胴と尾の1枚物
四本柱内提灯の名前は中須賀が確認されます 現在の川西・中須賀太鼓台の原型

専門の先生によると、飾り幕は古く、唐木、天幕、括り、房など近年のもの
子供さんのため付けたした可能性有り、またなぜ西条市ひまわり幼稚園に伝わってきたのか不明
時代は、江戸末期から明治初期、大きさは能地だんじりより少し大きめ、当時括りを付けていたか不明


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画像処理ソフトで天幕、括り、房を削除
御協力 西条市こどもの国

久保田在住古老の御話、昔青年団
久保田入りは昭和12年までそれ以後なし
戦争激化と久保田川原は土地が低くときどき川が氾濫していた
その為現在の様に土地の改良が始まった


戦前の太鼓台
太鼓係り二名 重係り一名 指揮者一名
担いでいたため 重係りはほとんど下ろしたそうです
笛なく口答で太鼓係りに伝えた、昭和30年代から重係り 指揮者二名になった
蒲団〆は昔は龍の角、鱗はするどかった、現在は括り、房にひっかかる為、
先が全体的に丸くなった


戦前の船御幸
舟2艘に太鼓台を載せる、舟が左右に揺れた時、人が毎回4,5人海に落ちた


括りまきの色 一宮神社宮司様の御話
昭和初期まで括りまきの色はくじ引きで決めていた
戦後今の色になったそうです


久保田河原の松
昭和22から23年まであり

泉川地区

泉川の市之土居(星原町の北西部)に太鼓があった
明治六年生まれのじいさんが、若い頃かいていたそうです。
国領川原で喧嘩になり、飛んできた石で台場まで埋まった事もあったとか。
明治中期頃には運行を止めていたらしい。
昭和六年生ぐらいまで幕の残骸が残っていたそうです。資料提供有志の方

上部地区

宮原太鼓台

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上部宮原地区(宮原のかなりの旧家)の倉に太鼓台を置いていた
明治中期のころにはもう太鼓は出ていなかった。
宮原太鼓台という名前だっかどうかは分からない。
八人くらいで担げる大きさだったらしい。形は不明。
ボロボロの幕らしきものと(今は無い)この彫り物はその太鼓台のもの。
太鼓(叩く方)は昭和初期に上泉か松木坂井に売ったそうだ。
資料写真提供有志の方 是非新居浜有形文化財の指定を


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